Blumenfeld【Preambules dans Tous les Tons, Op.17】ブリューメンフェリト 24のプレリュード 作品17
Felix Blumenfeld「Preambules dans Tous les Tons, Op.17」Piano
- 庫存狀況: 缺貨
- 出版社: Prhythm Edition
- 原文書名: Blumenfeld Preambules dans Tous les Tons, Op.17
- 編訂者: 長谷川和代
- 出版日期: 1970/1/1
- 總書頁: 95
- 商品編號: 9784904231432
- ISBN: 9784904231432
簡介
【簡介】
フェリックス・ミハイロヴィッチ・ブリューメンフェリト(1863-1931)は、ロシアの作曲家兼指揮者、ピアニストで、後世に名を残すピアニストを育てた優秀なピアノ指導者でした。
作曲をリムスキー=コルサコフに、ピアノをロシアピアノ界の大御所であったアントン・ルビンシテインから学びました。
1890年代にはピアニストとしての才能を発揮し、類稀なテクニックと情緒溢れる演奏、持ち前の甘いマスクで大変持て囃され、ロシア国内はもとよりヨーロッパ各地で演奏活動を行いました。
後に病気による後遺症で右半身麻痺となり、ピアニストとしての活動が続けられなくなってからは、指導者として活躍しました。
驚異的な音楽の才能とオペラや交響曲の豊富な知識、そして指導力に加え、更に広い人脈までもを持った音楽家として、ブリューメンフェリトの元には生徒たちが押し寄せたといいます。
20世紀最高のピアニストと言われるウラディミール・ホロヴィッツもブリューメンフェリトに魅せられた一人でした。
本書に収載された「24のプレリュード(全調による前奏曲)」はショパンの手法に則って作られた重要な作品として大きな話題となり、ヨーロッパやロシアで広く支持されました。
それはハ長調から始まり、イ短調、ト長調、ホ短調…と長短の平行調を1番から♯を増やしながら順に作られ、後半は♭6つの変ホ短調から♭を減らしていくという、5度圏で作られている形態です。
作品は、西洋のサロンスタイルやロシア民謡、そして「風景」や「死」などをテーマにし、多彩でオリジナリティに溢れています。
是非、この作品を通じて、叙情性溢れるロシアピアニズムに触れてみてください。
著者について
フェリックス・ブリューメンフェリト(Felix Blumenfeld)(1863~1931)
ロシアの作曲家兼指揮者、ピアニスト。ホロヴィッツなど後世に名を残すピアニストを育てた優秀な指導者でもあった。
晩年は病気のため右半身麻痺となったが、模範演奏ができないことなどまったく気にならないほど、創造性溢れる指導は生徒たちを虜にした。
ブリューメンフェリトの生涯
フェリックス・ミハイロヴィチ・ブリューメンフェリト(F. M. Blumenfeld, 1863~1931)は、驚異的に優れた音楽家であった。作曲家兼指揮者、そしてピアニストでもあり、後世に名を残すピアニストを育てた優秀なピアノ指導者でもあった。
フランス語と音楽の教師だった両親の元に4番目の子として生まれた。彼の二人の兄スタニスラウス(1850~97)とシギスマンド(1852~1920)もピアニストであり、幼い頃は兄からピアノを学んだ。一旦は工業系の大学に進学するが、音楽家の道を歩むべくサンクトペテルブルク音楽院への進学を果たした。音楽院で、作曲をリムスキー=コルサコフに学び、ピアノをサンクトペテルブルク音楽院の創設者であり、ロシアピアノ界の大御所であったアントン・ルビンシテインから学んだ。
1885年に、ルビンシテインから最高の成績をもらい卒業した彼は、卒業後すぐにサンクトペテルブルク音楽院の指導者として迎えられた。
ロシアの英雄と言われたルビンシテインとしばしば四手用の作品を演奏するなど、彼の右腕としてロシアピアニズム特有の叙情性溢れる音楽を真に理解していたブリューメンフェリトは、1890年代には指導の傍らピアニストとしての才能を発揮し、類稀なテクニックと情緒溢れる演奏、それに持ち前の甘いマスクで大変持て囃された。リサイタルはロシア国内だけでなく、ヨーロッパでも広く行われ、自作品や、リムスキー=コルサコフ、グラズノフ、リャードフ、アレンスキー等の作品を数多く上演した。また、名歌手の伴奏者としても演奏活動を行い、シューベルトとシューマンの歌曲全ての伴奏を暗譜で行うという、恐るべき暗譜力の持ち主でもあった。中年期に、病気による後遺症で右半身麻痺となり、ピアニストとしての活動が続けられなくなった。
1905年には、リムスキー=コルサコフが学生運動を擁護したことで音楽院を辞任に追い込まれ、そのことに抗議したブリューメンフェリトは、グラズノフ等と共に音楽院を辞職したのだった。
それから彼は、当時マイリンスキー劇場で指揮者をしていたナプラヴニクの元で技術を磨き、後に同劇場の常任指揮者に就任し、オペラや交響曲などを上演した。また、交流のあったロシア5人組の作品の多くを初演し、1906年にはスクリャービンの交響曲第3番『神の詩』を、1907年には『恍惚の詩』などの初演も行った。
1908年に、ロシアの大興行主であるセルゲイ・ディアギレフと共に、パリでロシア音楽によるコンサートを開き、客演指揮者を務めた。その時ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を初演し、ヨーロッパにその名を広く轟かせたという。
1912年から再びサンクトペテルブルクに戻り、1919年から1922年までキエフ音楽院で指導にあたり、院長に就任した。
その後は、1922年から1931年1月21日に亡くなるまで、モスクワ音楽院で指導にあたった。彼の死を、ロシアの音楽雑誌と新聞は、「ブリューメンフェリトは、ずば抜けた教養と、優れた精神の持ち主であった。芸術はその精神と創造性の1つを失った。」と書いた。
作品について
彼の作品はその殆どが絶盤し、世間から消えてしまった。1890年頃に『24のプレリュード』は出版され、ショパンの手法に則って作られた重要な作品として大きな話題となり、ヨーロッパやロシアで広く支持された。しかし、時代の流れとともに作品は消え、彼の存在も忘れられてしまった。作品の殆どは容易に弾きこなすことができないため、戦後の演奏家や愛好家達の好みから遠のいていったのではないだろうかと思われる。しかし近年では、演奏者の技巧レベルは飛躍し、インターネットの普及で情報が豊富に手に入るようになり、次第に、こうして忘れられた作曲家の作品が再び脚光を浴び始めるようになった。そんな中、再びブリューメンフェリトの音楽が取り上げられるようになったのは大変喜ばしいことである。
作品はピアノ曲を中心としており、『エチュード「海にて」 作品14』、『コンサート・エチュード 作品24』、『左手のためのエチュード 作品36』などを含む12の練習曲に加え、他に『ピアノ・コンチェルト 作品7』、『ソナタ・ファンタジー 作品46』、アンプロンプチュやノクターン、小品など合わせて54作品に及ぶ。
目錄
【簡介】
フェリックス・ミハイロヴィッチ・ブリューメンフェリト(1863-1931)は、ロシアの作曲家兼指揮者、ピアニストで、後世に名を残すピアニストを育てた優秀なピアノ指導者でした。
作曲をリムスキー=コルサコフに、ピアノをロシアピアノ界の大御所であったアントン・ルビンシテインから学びました。
1890年代にはピアニストとしての才能を発揮し、類稀なテクニックと情緒溢れる演奏、持ち前の甘いマスクで大変持て囃され、ロシア国内はもとよりヨーロッパ各地で演奏活動を行いました。
後に病気による後遺症で右半身麻痺となり、ピアニストとしての活動が続けられなくなってからは、指導者として活躍しました。
驚異的な音楽の才能とオペラや交響曲の豊富な知識、そして指導力に加え、更に広い人脈までもを持った音楽家として、ブリューメンフェリトの元には生徒たちが押し寄せたといいます。
20世紀最高のピアニストと言われるウラディミール・ホロヴィッツもブリューメンフェリトに魅せられた一人でした。
本書に収載された「24のプレリュード(全調による前奏曲)」はショパンの手法に則って作られた重要な作品として大きな話題となり、ヨーロッパやロシアで広く支持されました。
それはハ長調から始まり、イ短調、ト長調、ホ短調…と長短の平行調を1番から♯を増やしながら順に作られ、後半は♭6つの変ホ短調から♭を減らしていくという、5度圏で作られている形態です。
作品は、西洋のサロンスタイルやロシア民謡、そして「風景」や「死」などをテーマにし、多彩でオリジナリティに溢れています。
是非、この作品を通じて、叙情性溢れるロシアピアニズムに触れてみてください。
著者について
フェリックス・ブリューメンフェリト(Felix Blumenfeld)(1863~1931)
ロシアの作曲家兼指揮者、ピアニスト。ホロヴィッツなど後世に名を残すピアニストを育てた優秀な指導者でもあった。
晩年は病気のため右半身麻痺となったが、模範演奏ができないことなどまったく気にならないほど、創造性溢れる指導は生徒たちを虜にした。
ブリューメンフェリトの生涯
フェリックス・ミハイロヴィチ・ブリューメンフェリト(F. M. Blumenfeld, 1863~1931)は、驚異的に優れた音楽家であった。作曲家兼指揮者、そしてピアニストでもあり、後世に名を残すピアニストを育てた優秀なピアノ指導者でもあった。
フランス語と音楽の教師だった両親の元に4番目の子として生まれた。彼の二人の兄スタニスラウス(1850~97)とシギスマンド(1852~1920)もピアニストであり、幼い頃は兄からピアノを学んだ。一旦は工業系の大学に進学するが、音楽家の道を歩むべくサンクトペテルブルク音楽院への進学を果たした。音楽院で、作曲をリムスキー=コルサコフに学び、ピアノをサンクトペテルブルク音楽院の創設者であり、ロシアピアノ界の大御所であったアントン・ルビンシテインから学んだ。
1885年に、ルビンシテインから最高の成績をもらい卒業した彼は、卒業後すぐにサンクトペテルブルク音楽院の指導者として迎えられた。
ロシアの英雄と言われたルビンシテインとしばしば四手用の作品を演奏するなど、彼の右腕としてロシアピアニズム特有の叙情性溢れる音楽を真に理解していたブリューメンフェリトは、1890年代には指導の傍らピアニストとしての才能を発揮し、類稀なテクニックと情緒溢れる演奏、それに持ち前の甘いマスクで大変持て囃された。リサイタルはロシア国内だけでなく、ヨーロッパでも広く行われ、自作品や、リムスキー=コルサコフ、グラズノフ、リャードフ、アレンスキー等の作品を数多く上演した。また、名歌手の伴奏者としても演奏活動を行い、シューベルトとシューマンの歌曲全ての伴奏を暗譜で行うという、恐るべき暗譜力の持ち主でもあった。中年期に、病気による後遺症で右半身麻痺となり、ピアニストとしての活動が続けられなくなった。
1905年には、リムスキー=コルサコフが学生運動を擁護したことで音楽院を辞任に追い込まれ、そのことに抗議したブリューメンフェリトは、グラズノフ等と共に音楽院を辞職したのだった。
それから彼は、当時マイリンスキー劇場で指揮者をしていたナプラヴニクの元で技術を磨き、後に同劇場の常任指揮者に就任し、オペラや交響曲などを上演した。また、交流のあったロシア5人組の作品の多くを初演し、1906年にはスクリャービンの交響曲第3番『神の詩』を、1907年には『恍惚の詩』などの初演も行った。
1908年に、ロシアの大興行主であるセルゲイ・ディアギレフと共に、パリでロシア音楽によるコンサートを開き、客演指揮者を務めた。その時ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を初演し、ヨーロッパにその名を広く轟かせたという。
1912年から再びサンクトペテルブルクに戻り、1919年から1922年までキエフ音楽院で指導にあたり、院長に就任した。
その後は、1922年から1931年1月21日に亡くなるまで、モスクワ音楽院で指導にあたった。彼の死を、ロシアの音楽雑誌と新聞は、「ブリューメンフェリトは、ずば抜けた教養と、優れた精神の持ち主であった。芸術はその精神と創造性の1つを失った。」と書いた。
作品について
彼の作品はその殆どが絶盤し、世間から消えてしまった。1890年頃に『24のプレリュード』は出版され、ショパンの手法に則って作られた重要な作品として大きな話題となり、ヨーロッパやロシアで広く支持された。しかし、時代の流れとともに作品は消え、彼の存在も忘れられてしまった。作品の殆どは容易に弾きこなすことができないため、戦後の演奏家や愛好家達の好みから遠のいていったのではないだろうかと思われる。しかし近年では、演奏者の技巧レベルは飛躍し、インターネットの普及で情報が豊富に手に入るようになり、次第に、こうして忘れられた作曲家の作品が再び脚光を浴び始めるようになった。そんな中、再びブリューメンフェリトの音楽が取り上げられるようになったのは大変喜ばしいことである。
作品はピアノ曲を中心としており、『エチュード「海にて」 作品14』、『コンサート・エチュード 作品24』、『左手のためのエチュード 作品36』などを含む12の練習曲に加え、他に『ピアノ・コンチェルト 作品7』、『ソナタ・ファンタジー 作品46』、アンプロンプチュやノクターン、小品など合わせて54作品に及ぶ。
詳細規格
書籍資訊 | |
記譜法 | 五線譜(一般) |
原文語言 | 日文 |
特徵 | 西洋古典 |
樂器 | 鋼琴 |
裝訂 | 平裝 |
形式 | 譜 |
外型尺寸 | 大於A4 樂譜常用尺寸 |