Arensky【Twenty-four Characteristic Pieces, Op.36】 /アレンスキー 24の性格的小品 作品36
俄國作曲家阿倫斯基「Twenty-four Characteristic Pieces, Op.36」Piano
- 庫存狀況: 缺貨
- 出版社: Prhythm Edition
- 原文書名: Twenty-four Characteristic Pieces, Op.36
- 作者: Anton Arensky
- 編訂者: 大野真紀
- 出版日期: 1970/1/1
- 總書頁: 141
- 商品編號: 9784904231371
- ISBN: 9784904231371
簡介
【簡介】
本書のタイトル曲目でもある『24の性格的小品 作品36』は、1894年、アレンスキーが作曲家として、またピアニストとして勢いのある時期に作られた。各楽曲にタイトルが与えられ、それぞれがキャラクターを持つ曲集である。24種類の調を用いて作曲されている。
心地よい叙情性に溢れる作品からは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア音楽サロンの雰囲気を伺い知ることが出来る。アレンスキーのピアノ曲は、そうしたものを語るのに欠くことは出来ない音楽であり、多くのピアニストやピアノ愛好者の演奏レパートリーに加えられるべき音楽だろう。
著者について
アントン・ステパーノヴィチ・アレンスキー(Anton Stepanovich Arensky 1861.7.12─1906.2.25)はロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。作曲家として2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲、室内楽曲、合唱曲、オペラに至る幅広いジャンルで約250曲もの気品に溢れた優雅な作品を作り上げた。しかし現在は音楽学者、演奏家、音楽愛好家が気に留めない程その存在は影に隠れている。
19世紀末から20世紀初頭のロシア音楽は、壮麗で豊かな文化が飛び交う、芸術性豊かな時期だった。チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフが頂点に立ち、アレンスキー、グラズノフ、リャードフ、タネーエフ等の作曲家がその伝統を受け継ぎ、スクリャービン、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーが20世紀ロシア音楽を発展させていった。アレンスキーは、今日「巨匠」と呼ばれる芸術家に前後を挟まれた中継ぎの世代に当たる。
幼少〜学生時代のアレンスキー
アレンスキーは1861年7月12日、医師だがチェロを演奏する父とピアニストの母の間に、4人兄弟の3番目の子供としてロシアのノヴゴロドで生まれた。音楽を愛する両親の元で育ち、7歳になると母親からピアノを習うようになり、9歳になると歌曲やピアノ曲を作り、幼い頃から才能を示した。アレンスキーの才能に気付いた両親は、息子に音楽の道へ進ませようと考え、家族でサンクトペテルブルクへ引っ越した。アレンスキーは学校で勉強しながら私立の音楽学校にも通い、そこでカルル・ズィーケに師事した。
1879年にペテルブルク音楽院に入学し、作曲と管弦楽法をリムスキー=コルサコフに、対位法をヨハンセンに師事した。アレンスキーは地道に勉強するというより、元々持っていた才能により入学当初から話題となった。「いかにも芸術家らしい人。情熱的ですぐ夢中になりやすく、気ままな欲望に支配されてしまう、自制心に欠けた人」というのが級友達が描くアレンスキー像である。後輩に当たる作曲家ミハイル・グネーシンによると、アレンスキーの音楽院時代の作品はほとんど授業中(それも教授が他の生徒をみている間)に作られたものだという。それでも即興的に作られた作品は、級友達の作品よりよい出来だったそうだ。
教授時代、関わった人々
1882年に音楽院を主席で卒業し、1883年にモスクワ音楽院から作曲の講師として招かれ、和声や対位法の授業を受け持った。1889年に教授に昇進した。ラフマニノフ、スクリャービン、グリエール、グレチャニノフ、ゴリデンヴェイゼル等、その後のロシア音楽を支える作曲家達がモスクワ音楽院でアレンスキーに師事した。また、チャイコフスキーやタネーエフとの親交を得ることが出来た。まだ若かったアレンスキーにとって、彼等は作曲家・教育者として手本となる存在だった。『ピアノ協奏曲 ヘ短調 作品2』『交響曲第1番 ロ短調 作品4』『間奏曲 ト短調 作品13』オペラ『ヴォルガ河畔の夢 作品16』『ピアノ三重奏第1番 ニ短調 作品32』『弦楽四重奏第2番 イ短調 作品35』『チャイコフスキーの主題による変奏曲 作品35a』等のアレンスキーの代表的な作品はモスクワ音楽院教授時代に作られた。また、和声法と音楽形式論の教科書を残している。アレンスキーは意外にも、曲を作るだけではなく演奏にも熱中した。タネーエフが書いた手紙によると、アレンスキーの演奏は技巧的ではなく、癖のある弾き方ではあるが、ピアニストとして成功を収めたようだ。その傍ら、1888年からロシア合唱協会の監督を務めるようになった。
晩年
1894年にバラキレフの後任として宮廷合唱団の監督の地位を推薦されたため、12年間勤めたモスクワ音楽院を辞めてサンクトペテルブルクへ戻った。セルゲイ・リャプーノフを代理人に迎え、1895年から合唱団の指導に励み(アレンスキーは飲酒と賭博を趣味としていたが、多くの宗教音楽を残している)、母校であるペテルブルク音楽院でも教鞭を執るようになった。1901年に退職し、年金を受けながら作曲家、ピアニスト、指揮者として国内外で活躍の場を広げた。
しかしアレンスキーのアルコールや賭博の依存は次第に強まり、身体を壊していった。1903年に持病の肺結核が悪化し、演奏活動を停止する。その後はクリミア半島(黒海の北岸、ウクライナにある半島)やニース(フランスの南東部にある都市、保養地として有名)等の暖かい地で療養したが、快復は得られなかった。更にフィンランドのテリオキ(現ロシア連邦ゼレノゴルスク)にあるサナトリウムへ移った。アレンスキーはこの地で晩年を過ごし、1906年2月25日に他界した(享年45歳)。アレンスキーの遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院へ送られ、チャイコフスキーの墓のすぐそばに埋葬された。
作風
アレンスキーの音楽はチャイコフスキーの影響を受けたので、「エピゴーネ(独創性のない模倣者)」と評価された。また、ロマン派(メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト等)の影響も受けたため、時には「折衷主義」と非難された。こうした事もあり、師であるリムスキー=コルサコフからは『青年時代のアレンスキーは私の影響下から逃げようとしなかったが、その後はチャイコフスキーに影響されるようになった。アレンスキーはすぐに忘れられるだろう』と回想録に記される程、その評価は低い。更に、ヨーロッパのロマン派の様な響きを持つアレンスキーの音楽は、同時代に活躍した「ロシア5人組」の民族的な音楽と方向が異なり、結果アレンスキー独特のスタイルというものが確立出来なかった。現在アレンスキーの存在が薄れているのは、こういった理由ではないかと思われる。しかし、アレンスキーの作風は確かにチャイコフスキーの影響を受けているものの、ダイナミズムやドラマティシズムは受け継がず、繊細で優美なメロディーの作品が多い。
目錄
Song List:
- Twenty-four Characteristic Pieces, Op.36
詳細規格
書籍資訊 | |
記譜法 | 五線譜(一般) |
原文語言 | 日文 |
特徵 | 西洋古典 |
樂器 | 鋼琴 |
古典作曲家 | Arensky, Anton 阿倫斯基 |
裝訂 | 平裝 |
形式 | 譜 |
外型尺寸 | 大於A4 樂譜常用尺寸 |